十世紀花山天皇の時に仏眼上人の開いた寺と言われてますが、資料がほとんど残っていないため、その後の寺歴は不明。住職の名前が残っているのは17世紀の中頃からで清仁和尚が初代。1614年蜂須賀家政が現在の小松島市中田町に別邸を建て蓬庵と称して隠居し、豊臣秀吉の木像(1599年に豊臣秀頼より与えられた)を近くの千代の松原の北に豊国大明神として祀り、京都高尾山から龍源上人を迎えて豊林寺をつくり豊国神社の別当にしました。しかし、徳川幕府の基礎が定まる1616年になると幕府を恐れた蜂須賀氏は豊林寺を廃寺にし徳島の勢見に観音寺を建てて龍源上人を移らせました。 以上は小松島市史に記されていますが、阿淡年表秘録や阿陽忠功伝によると、豊林寺の開山は権大僧都清仁となっており、豊林寺廃寺後、清仁は近くの宝蔵寺(現堀越寺)に移ったとされています。豊国神社と豊林寺の社殿や本堂、本尊は他の寺院に移されたりして、神像、棟札はいったん庄屋に預けられ、のち宝蔵寺(現堀越寺)が保管していて現在神像は堀越寺の北側に豊国神社として祀られています。
本尊は慶応年間ごろまで延命地蔵であったが、それまでに「堀越の観音さん」と庶民に信仰され癪病平癒の観音として広く知られていたため、その頃から堀越観世音菩薩が本尊となり、昭和18年頃寺名も宝蔵寺から堀越寺に変わりました。堀越観世音は紀伊国(和歌山県)伊都郡の猟夫が地中より一寸八分の尊像を発見し、堀向こうの山の浄地に安置し供養されていたのを、当時阿波小松島中郷村西ノ原に孝心の厚い藤兵衛というものがいて、夢に「紀州の堀越観音を当地に移せば普く諸人を利益せん」と告げられ紀州の地に渡り霊夢の冥会を猟夫に告げて当地に移されたと伝えられています。
(住職 谷 亮弘)